古賀文敏ウイメンズクリニックKOGA FUMITOSHI WOMEN’S CLINIC

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院長コラム

院長 古賀文敏 が不定期に書いているコラムです

2019.09.17

 『異端者の快楽』

9月水曜日の午後2時、私は堅めの無機質な椅子に腰掛けて、不自由な目で見城徹氏の「異端者の快楽」を読んでいました。「無理は通すためにある。極端は振り切るためにある。顰蹙は買うためにある。アップデートし続けた者のみがビジネスを制する」幻冬舎社長の言葉は、いつも過激で、こちらにも圧迫感を与えてしますので、私が時々クリニックのライブラリーに置いておくと、イメージに合わないと言われます。でもその本の序章に、「僕は自分という人間がそのような共同体における極端な異端者であることを自覚してきた。」編集者が相対する作家や表現者は、共同体における異端者そのものであるとも。暗闇に向かって跳躍を続ける表現者達の営みが共同体を刺し貫くことがあり、それが彼としての快楽となっているとありました。私に取って、その異端者という言葉が胸にストンと落ち、私が共感を持つのはここなのかという気がしたのです。 

天気の良い昼下がりのなか、そこで働いているスタッフは少しまどろんでいたい気持ちになっていたかもしれませんが、6人ぐらいの初老の男女には明らかな緊張感が漂っていました。一人目のおばあちゃんは手術が終わると、大きめの眼帯をつけて、酷くうろたえ涙を流して帰ってきました。もう一人の女性は家族に支えられながら、泣いていました。私がここに座っているのは、みんなの最後に白内障手術を受けるからなのです。52歳という若さで、この手術を受ける恥ずかしさ、みんなに終末糖化産物AGEsが皺や卵、目の老化に繋がりますよ!と注意しているのに、誰より早く老化していました。小学1年の時から視力は0.3で毎週のように眼科に通ったり、自宅で視力トレーニングなるものを自分で情報集めて行ったりしていました。いつか失明するかも?という危惧は、心の奥底にあり、授業は常に最前列で聞いていました。中学の時にとびきり可愛い子(当時は思っていた)とお付き合いした時も、これが最後かも?なんて思いもありました。20代でほぼ視力の低下が止まり、なんとか安堵していたものの40代でも近視が進行するのは珍しいと眼科医に言われ、これ以上のコンタクトは普通ない、との言葉は再び私の心を揺さぶっていました。40代半ばから何度もハードコンタクトを新品に変えても見えにくくなり、学会会場の光が眩しく、思えばその頃から白内障だったと思います。講演も自分のパワーポイントが読めなくて苦労しました。大好きな車の雑誌を読むくせに、この2年はハンドルを握れませんでした。いつまで仕事を続けられるかな?いつしかそんな怖さが頭をもたげてきました。

小さな時から異端者を自覚していた自分が見城徹氏に共感を覚えたのも必然かもしれません。私は、異端者であり、極端だった。そしてその極端にしか満足を感じなかったのでしょう。私が始めた当時の不妊症は本当に大変でした。正常な分娩が当たり前とは全く別で、妊娠率も低く、副作用も酷く、社会的にも孤立させられていました。でもだからこそ私のような異端者の存在意義があったのだと思います。天神ルーチェに移転の際も、契約が残っていた権八グループを退店してもらい、今から思えば破格の安値で10年契約を勝ち取ったのも、イギリスのGAのテリー氏にデザイン監修してもらったのも、幻冬舎ばりの戦いでした。素人なのに、覚悟を決めれば突破できることに驚きも感じました。 手術の前は、もし失敗したらZOZOのように身売りするかもしれない、でもやるだけはやったと思えば、私自身の気持ちは落ち着いていました。レンズをとるなんて想像もできなかったのですが、ギュッと抑えられている中、新しいレンズが入った瞬間は、天国から光が注ぎ込んで来ました。映画「天気の子」の陽菜が天国に誘われるシーンのように、私の目にかけている水がきらきらと光り、命をもらったようでした。 「異端者の哀しみは、一皮めくれば異端者の洸惚に変貌する。人知れぬ異端者のエクスタシー。僕はそれに迫ってみたい。」と絶望の中で死にたいと訴える見城徹氏。私は、あれから毎日空の青さに驚いています。今回の手術で10年以上の時間をもらいました。ヤバイです!