古賀文敏ウイメンズクリニックKOGA FUMITOSHI WOMEN’S CLINIC

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院長コラム

院長 古賀文敏 が不定期に書いているコラムです

2015.08.15

遠い記憶

初めて鹿児島までの新幹線さくらの乗車体験がこんな時だとは思いもしなかった。大学時代の級友ががんで亡くなったと妹さんから連絡があったのは前日昼間。土曜日の診察中で、「鹿児島大学のA先生まで連絡下さい」と受付スタッフから聞いた。大学の学生時代、試験に困っている私に、いろんな情報を教えてくれて何度も救ってくれた恩人だったが、何かと一緒に遊びに出かけ、私にとって悪友のような感じだった。どうせ事前連絡なく、学会で福岡に来ているので夜の予定を尋ねているのだろうと考え、今日は九州沖縄生殖医学会の懇親会が先に入っているから切り上げることができるのか計算していた。だが電話の主は彼の妹さんだった。思いもしない報告に言葉を失った。今年年賀状がこないと思っていたが、がんの治療をしていることすら知らなかった。(妹さんから私に連絡しようかと相談されたらしいが、断ったらしい。)翌日昼までで学会を切り上げ、鹿児島まで新幹線でお通夜に向かった。

「なんで最後に会ってあげなかったのだろう、手をしっかり握ってあげたかった。」とお母さんを見たら涙が止まらなかった。時々メールしていたこともあり、何かと会っているような気がしたが、帰りの新幹線でふと考えると彼の結婚式で友人代表でスピーチした時以来だった。お子さんが中学に上がっていたので、もうすでに15年近くたっていた。心のなかにぽっかりと穴があいたような気がした。なんでも話せる友人を失ってしまったような気がしたが、翌日からの私の生活は何ら変わらず、あたりの景色も何も変わっていなかった。

毎日がめまぐるしく、日々あっという間に過ぎていく。34歳ぐらいの方の一人目治療の後に2人目、3人目と治療していると、その方が思いがけず40歳ぐらいになっていることに気づく。そういえば「東京ラブストーリー」の原作では、別れたカンチとリカが何年か後に出会うのだが、カンチは既に結婚していて、そしてリカはそれまでの月日を感じながら、よりを戻すことなく終わったのが最終回だった様な気がする。僕らは、急にそんな時間経過を感じられなかったので、感情移入できず、違和感を覚えたものだった。

今でこそ人の死に医師として直面することはなくなったが、国立小倉病院時代は婦人科腫瘍の患者さんの看取りを数多く経験し、常に死は生と隣り合わせと感じていた。いつ何時死亡宣告されるかわからないという感覚は、もしかして他の方より強いかもしれない。このクリニックも脂がのって仕事ができるのはせいぜい10年かもしれない、その終着点を考えるととてもゆっくりしてはおられない気持ちにさせられる。経営上大きな決断をせざるを得ないことも多いが、走りながら考えている感覚である。でもそれは決して絶望の感覚ではない。

中学の頃、成績は結構良かった方だが、大川から久留米までの通学、そしてサッカー部や夜遅くまであった全教研という塾との両立で、時々行き詰まることがあった。何しろ朝6時起床で、ラジオで英語講座を聴いて、その後急いで朝食を食べ、柳川駅までの10キロ弱を自転車で行き、そして特急電車で20分、そして久留米駅に置いている2台目の自転車で10分ぐらいの通学だった。サッカー部では力がないのに主将を務め、中2までの特訓クラスでも夜8時半まで授業があった。中3では夜10時までだから、帰宅は夜10時から12時、今考えてもすさまじい生活だった。そして同級生と比べると裕福でないことはわかっていたので、どれだけ私の教育費にかかっているのだろうと思っていたりもした。どうしてこの道を選んだのだろうと疑問に思い、すべて投げ出したくなっても無理はないのかもしれない。でもそんな時、母親はすべてお見通しのように「いいよ、そんなに頑張らなくたって。もともと文は死んで生まれたんだから。」と切り出し、私の出産の時の思いを語ってくれた。予定日を過ぎて破水から24時間以上たってもなかなか生まれず、最後は鉗子分娩だった。顔面蒼白で、泣き声はもちろんなく、母は産婦人科の院長の顔を見て、「死んでしまった」と思ったという。通常の蘇生でうまくいかず、最後は冷水をかぶせられて、泣き声が聞こえたという。(当時の新生児蘇生ではそんなやり方もあったらしい。)その証拠に私の頭のてっぺんに窪んだ痕があり、ここを触りながら、「今こうして文が生きているだけで、お母さんは幸せ。どういう道を進んでもいい。」としっぽりと語ってくれた。私はこの母の言葉を聞くと、今までの焦りがすっと溶けていくような感覚を覚えた。そして生まれたときの苦しかった気持ちを覚えているかのように思えてくるのだった。

進路で迷った時に、産科や新生児医療を考えた原点かもしれないと思う。そして学生の頃、彼と一緒に聖マリア病院の新生児科を3日間私の実家から見学に行ったことを思い出した。もう25年ほど前だなあ。鹿児島中央で「さくら」に乗る前、ふと花屋さんによって、小さなぶとうの木を買った。淡い緑が私を癒やしてくれているようだった。

彼のご冥福をお祈りします。