古賀文敏ウイメンズクリニックKOGA FUMITOSHI WOMEN’S CLINIC

医師のご紹介

院長

院長コラム

院長 古賀文敏 が不定期に書いているコラムです

2009.06.06

目覚めた時、お腹の子は(朝日新聞「患者を生きる」970から)

「よく頑張ったわね!」02年12月下旬、東京都墨田区の都立墨東病院の集中治療室。種上あいさん(33歳)=仮名=が目覚めると、看護師が叫んだ。産科の病室に移ったあいさんのまわりには、夫や母親、妹の野田貴子さん(31)=同=ら家族が集まり、互いに喜び合った。あいさんは、幼稚園の頃、特発性血小板減少性紫斑病(ITP)と診断されて、地元の総合病院に入退院を繰り返した。中学生になると、症状は落ち着いた。だが02年春、鼻血が止まらなくなり、約20年ぶりに2週間ほど入院した。やはり「ITP」という診断だった。

その夏、初めての妊娠がわかった。ITPを患ったまま出産するにはリスクが伴う。12月中旬、妊娠24週で内科に入院し、治療を受けながら、出産に備えた。ところが、まもなく顔や手足がむくみ始めた。6日目。意識障害が現れた。貴子さんからの携帯メールの字は読めるが、内容は理解できない。母親が呼びかけても、言葉が出てこない。吐き気がしてトイレに駆け込んだ直後、目の前が真っ暗になり、意識を失った。

墨東病院に搬送されたあいさんは、腎臓や肝臓の機能が低下し、全身に紫斑があった。血液内科の富山順治医師(54)は、血栓性血小板減少性紫斑病(TTP)を疑った。過去に数例TTPの患者を診たことがあった。全身の血漿を2回交換したが、容体は改善しなかった。「かなり厳しいです。」家族は告げられた。意識が戻ったのは、3日後だった。

翌日、あいさんは、胎動がないことに気づいた。「元気ないのかな」2日後、夫が「話さないといけないことがある」と切り出した。「赤ちゃんは死んじゃったんだ」赤ちゃんを取り出す際に、子宮も摘出したという。まさかー。「子どもと会うか?」夫に聞かれたが、「1日考えさせて」と答えるのがやっとだった。翌日、赤ちゃんと対面した。会わないと一生後悔する、と思った。男の子だった。白い産着を着せてもらっていた。ほおは赤みが差していた。622グラム。抱くと、ずっしり重く感じた。夫に写真を撮ってもらった。

朝日新聞「患者を生きる」970より(「患者を生きる」はアスパラクラブのウェブサイト「健康club」に掲載されています。アスパラクラブで検索してみてください。)

引用させていただいたのは、同じような経過をたどった血液疾患の方を経験したためです。当院の患者様の声に「乗り越えられた出産のハードル」と題して経験談を載せさせていただいている方です。できちゃった婚で、と若干照れくさそうないい方が彼女らしいのですが、初めの妊娠は本当に生きるか死ぬか、そんな出来事でした。

当時、私は、不妊・内分泌部門の傍ら、産科の仕事をしており、その夜は、ちょうど産科病棟の当直でした。まだ妊娠7カ月に満たない彼女が深夜に高熱で受診し、再生不良性貧血という合併症をもっていたこと、おなかがかなり小さいことからただならぬ予感がしました。案の定、血小板はかなり危険域まで低下、なかなか熱も下がらず、輸血を行っても効果がない状態でした。血液内科で集中治療を受けたその後、破水をして、小さな小さな赤ちゃんはかなり危険な状態に。その後の経過は彼女の体験談を読んでのとおりです。

出産っていうと夫が隣でビデオカメラをまわして、みんなで祝福して、・・・そんなイメージがあるかもしれませんが、産婦人科医からすると、死と隣り合わせだと実感しています。ましてや彼女のように合併症がひどく、妊娠中に偶発的に他の病気にかかったらなおさらです。私自身、周産母子センターや新生児センターで長く働いてきたためか、本当に重症な方を何人も経験しました。ひとりひとりの名前を思い出すことができなくても、大事なことを話した時の表情や言動はかなり鮮明に覚えています。

でも彼女はまた特別。自分の病気のことを誰のせいにする訳でもなく、私の話をじっと聞いてくれました。そして「昔、再生不良性貧血の診断に骨髄穿刺した時も、すごい痛かった、ふふふ。」大事な話をご夫婦でとお伝えした時も、「今頃、彼は小郡からここ久留米大まで走ってきていますから、もうちょっと待っててください。彼は、走るのが趣味なんです。」なんて、私のただならぬ表情を察してか、場を和ませる会話ができる方でした。

そして二人目を希望されて、当院に通っていただいて、なんなくタイミング療法だけで妊娠と思うのもつかの間、今度は一絨毛膜二羊膜性双胎で双胎間輸血症候群になり、前回とは違ったパターンで大変な目に。大学の担当医からは、「また大きな試練が待ち受けていますね。」と言われたそうです。いつもにこにこしている彼女でもさすがにお産直前にきたメールはちょっと心細そうでした。でもなんとか無事に乗り越えられました。

その後当院の患者さんで大学病院に入院することになった方々が出産後に赤ちゃんを連れて来られた際、一様に彼女のことを話すのです。「えっ、なんで知っているのですか?」と思うのですが、お互い入院期間が長かったからでしょうか、「僕の話で盛り上がった!?」なんて笑いながら言われると、その後が気になります(笑)。でも最後は、みんな「彼女に救われた。」って話すのです。「何とはなしに雑談だけだった」と言われていましたが、彼女の表情や話し方、人となりを知っているだけに、私には容易に想像ができます。自分の不安なんて小さなもの、そして人生前向きに進まなければならないもの、きっとみんな感じ取られたのだろうと思います。

色々大変だったでしょう、そして今頃はきっと3人の子育てでゆっくりする暇もないことでしょう。でもあなたのような母親に育てられている子ども達はきっと幸せなことだろうと思います。・・・私もあなたのような人間になれたらいいなあと思います。